「あんた、なにやっとるや?」女の人の仕事がたくさんあった瀬戸尾張瀬戸駅周辺の瀬戸市中心市街地。昭和の初めからほとんど景色が変わらず、町工場や遊興場の名残りが残るまち。せとものの原料である陶土の鉱山はまちからすぐ近くにあり、陶土を山盛り積んだダンプカーが土埃をあげて走ります。製陶工場は、昭和半ばまで石炭を燃料に、煙突からモクモク黒煙を上げていました。そんな瀬戸の街に人々は暮らし、働き、子ども達は育ちました。男女雇用均等制度ができるずぅっと前、女の人の仕事がたくさんあった瀬戸。女同士が道で会うと、挨拶のように「あんた、なにやっとるや?」と聞き合いました。何やっとるというのは、やきものの仕上げか、絵付けか、工場勤務か内職かという事を聞いているのです。うちにおる(主婦)というと、「はぁん、何にもやっとらんのやね」となります。主婦だって大事な仕事ですが、お金になりません。「うち、忙しいで紹介したげよか」という話にも発展します。子どもがいたって、それは仕事の障害になっていませんでした。奥さんの仕事が忙しければ、家族や近所が皆んなで子どもを見るのが当たり前だったようです。そんな瀬戸の子どもたちの保育園事情やどんなふうに遊んでいたかを書いてみたいと思います。戦前にあった! 「でんべい幼稚園」二軒並んだ奥の路地に、幼稚園があったそうです。「でんべい幼稚園」は、江尻でんべいさんという人物が開いた、幼児教育をする施設です。昭和12年(1937)に末広町で生まれた山内さんの話によると、5、6歳で通ったと聞きます。当時は車も走っていなかったため、自分ひとりで歩いて登園したと言います。遊戯(歌や踊り)や行儀を教わり、教育なんてつまらんめんどくさいと、山内さんは思いながら通っていたそうです。後に「夏目そろばん」となり、現在は閉業しています。今も続く「東保育園」のはじまり東保育園に飾られた緞帳。昭和18年(1943)洞町生まれの水野さんによると、現在の「東保育園」は、1948年頃に宝泉寺の駐車場にあたる場所にできたといいます。その頃はあまり通う人がなくて、地域の人に頼まれて通ったと言います。他の子が勝手に遊んでいるのに、めんどくさいなぁと思ったそうです。当時は、窯元の子や商店の子が通い、少しセレブ感があったようです。当時の正確な情報がわからなかったのですが、もともとは瀬戸市が「瀬戸立東保育園」として開園。2003年に「公設民営」の形で、東海地区初となる民間団体への委託運営が始まり、2014年からは完全な民間認可保育園として運営されています。初期の園長の伊藤伊平氏は、洋画家の北川民次と親交があり、保護者の希望でホール用の緞帳制作を依頼したそうで、現在も民次の緞帳は階段の壁に飾られています。子どもたちを見守っていた、お寺の存在昭和20年(1945)東本町生まれのYO子さん。保育園には通いませんでした。近所の子どもたちと工場でままごとや、紙の着せ替え人形で遊んだり、瀬戸市内の栄国寺境内で遊んだりします。栄国寺では、さまざまな催しがあり、こども創作劇をしたり、歌や踊りを披露する地元主催のお楽しみ会の練習が楽しかったと言います。子どもたちをほったらかしているのではなく、好きにさせているようで、何か目標を持たせ、道筋をつけてあげる大人がいたのですね。ままごとのお皿に使った、陶片。男の子は手裏剣と呼んでいました。小学校入学まで何処にも行かない人も珍しくありませんでした。マユミーヌの場合昭和33年(1958)、私は母の実家の近く挙母(現在豊田市)の助産院で生まれ、せと末広町商店街で育ちます。5歳で三郷幼稚園に入園。送迎バスで通園します。同じ町内の子どもだけで指定の乗り場に集まって、いってらっしゃいと親が見送るのは家で、その時間にはもう店が開いて親たちは働いていました。後になって、商店街のお母さんたちが「なんで保育園じゃなくて幼稚園に行ったかというと、送り迎えの時間が無かったから」というのを聞いて、朝の時間がよほど忙しかったんだなぁと思ったことがあります。保育園に通った人はというと、ある商店街の男の子は「僕ひとりで行っとった」と言います。規則違反ではあったのでしょうが、子どもだけの登園が黙認されてたようです。子どもたちは、どんなふうに遊んでいた?近所の友達や従姉妹たち、子どもがどんなふうに遊んでいたか、記憶を辿ります。記憶の一番古いのは、宮前公園の猿。天気が良ければ毎日、祖母に手を引かれて宮前橋を渡り、宮前広場を通って公園に行くと、砂場と遊具があり、鳥舎と猿舎がありました。他の子どもやお守りのお年寄りがいて、遊んだりおしゃべりする相手がいつもありました。現在、陶祖公園にある猿舎。猿は家族でいて、時々子どもが生まれます。私たちは、動き回る猿のお母さんのお腹にひっしとしがみつく赤ちゃんを飽きずに見ていました。小学校入学と同時に、アーケードが完成しました。これはもう、全天候型の遊び場です。石蹴り、陣取り、ゴム飛び、元大(ソフトテニスボールの打ち合い)し放題。おまけに街灯で明るいので、日が暮れてもお風呂の後もずっと遊んでいました。もちろんテレビも観ます。手塚治虫、円谷プロ、ポパイ、フィリックス、トムとジェリー。ロッテ 歌のアルバム、奥様は魔女、ジャジャ馬億万長者。どんぐり音楽会、兼高かおる世界の旅。一日が長かった。遊び場は市街地外での遊びは、近くの鎮守石神社。ブランコと滑り台、小さな土俵もありました。ここの社務所で習字塾が開かれて、週4回か5回の教室がありました。さっさと課題を書き終えればあとは遊びの時間。習っていない子も集まって、缶蹴りやかくれんぼ、女の子はままごとで暗くなるまで遊びます。瀬戸川には、下りて行っていかん。チフスになると言われてました。産業廃水で白く濁り、陶土と石膏でヌルヌルとした河岸。現在はきれいな瀬戸川。家庭ゴミも捨てられて、それはもう酷い有様でしたが、子どもたちは、平気。橋から橋へ、道路の下をくぐるのが面白くて、こっそり遊びます。ヌルヌルに足を突っ込んだら抜けなくなって、ビーチサンダルをなくして帰って叱られたこともありました。そろばん、学習塾、習い事は、学童保育の役目をしていました。私の通っていた学習塾は、退職した教師の女性が先生で、畳敷の教室に入る手前の土間には、少年サンデー、少年マガジンがズラリと置いてありました。先生の息子さんの蔵書だったようです。留守の家には遊びに行ってはいけない。お母さんがいる友達の家に遊びに行くと、大抵のお母さんは内職をしていて、邪魔にならないように気をつけるのが子どものマナーです。家の中に電気窯があって、転写張りをして、焼いている様子が見える家もありました。工場でも遊びました。友だちの家の工場(こうば)で、寒い冬窯出しをした後の重油窯の連房で暖まったり、使わない時の乾燥場で遊んだり、おばさん達の職人技に見とれて長い間絵付けを見ていたこともありました。子どもたちはそれを邪魔しないようにのびのび遊ぶというのが、昭和の瀬戸の子どもたちです。大きな子は小さい子も遊びに混ぜてあげて、缶蹴りでもかくれんぼでも、2回まで捕まっても鬼にならないというルールがありました。そういうのは、「コメ」と呼ばれました。それでも危ない遊びをする時は、「今日はチビは来れん」と置いていかれます。「コメ」は無しです。どこまで大丈夫なのか、考えていたのです。石神社。春の陶祖まつり、秋の深川神社の大祭には、各町内から子供獅子の奉納が行われます。以前は、春は陶祖公園(瀬戸公園)で陶祖藤四郎さんへの奉納にも出かけて、子どもの数だけのお餅をいただいていました。土曜の午後(午前中は学校がありました)と日曜の2日間、カネや太鼓を鳴らしてワッショイワッショイと町内を練り歩き、獅子元に帰るとお駄賃のお菓子をその都度もらいます。獅子元の番をするのはだいたい町内のお年寄りで、お茶やお供えのお酒を酌み交わしながら、子どもにお菓子を配っていました。お獅子には同行しません。子どもたちだけで、あちこちワッショイワッショイと回っていました。子どもの声が厄祓い、お清めとなっていたのです。男獅子、女獅子があって、それぞれ年の違う子も獅子頭(ししがしら)に着いた唐草の布に捕まります。頭を被るのは、小学五年か六年生。獅子連のリーダーとして、ペース配分に気を使います。早獅子というのもあって、高学年の男の子だけで、走るように出かけます。この時は女の子と低学年は獅子元で留守番。行き先は陶祖公園か、深川神社。他の町内の早獅子と会うと喧嘩が始まります。相手の獅子の毛をむしったり、耳を奪い合います。うちの東末広町は弱くて、長い間片耳を分捕られたまま、悲しい姿の男獅子でした。それでもいつかは、一緒に連れて行ってもらえるのを楽しみにする小さい子たちでした。子どもがたくさんいて、子どもが子どもだけで行動する。そこには、仲間が怪我をしないように、置いてきぼりにならないように気をつける気遣いがあったと思います。昔は良かったと言いたいわけではありません。交通量も違い、地場産業の衰退、衛生安全の感覚も違います。60年ほど前、ただそんな時代があったと書き残したく思いました。ほんに瀬戸瀬戸よいところ瀬戸は火の町土の町チヨイト土の町