瀬戸記念橋は、バスの「駅」。瀬戸の年寄りから永らく省営バスと呼ばれた、旧国鉄路線バス。国有鉄道から民営化したJRバスは、瀬戸市内に路線はひとつもありません。しかし、瀬戸記念橋は、日本で最初に省営バスが走り始めた、歴史ある場所です。記念橋とは何を記念しているのかというのは、諸説ありますが、明治の終わり頃、皇太子であった大正天皇が行幸された記念というのが有力です。当時、日本三大はげ山の一つで、土砂災害の恐れのあった瀬戸の山。ホフマンという東京帝国大学のイタリア人教授が設計した、一大土木工事、ホフマン砂防ダムの完成を見に来られたそうです。現在、記念橋南にある「瀬戸蔵」は瀬戸市役所で、陶磁器の集荷所「蔵所」でもありました。瀬戸の街のまさに中心部。周囲に陶磁器問屋をはじめ、銀行、運送、飲食店、遊興場、商店、旅館、全てが集まる場所だったのです。宴会のできる料亭が何軒もあり、この地域だけで、芸妓が何十人もいたという時代もありました。今回は、1930年(昭和5年)12月から2004年(平成16年)8月まで、バスの駅として人々に愛された、記念橋駅のお話です。[↑現存している日本最古の国産バス]昭和5年とはどんな年だったかというと、世界恐慌が日本にも影響を及ぼし、景気は良くありません。そのため、明治の頃から日本中で鉄道建設が進められ、大都会だった岡崎と多治見を結ぶ鉄道、国策である陶磁器生産地多治見・瀬戸と東海道本線を結ぶ「岡多線」の鉄道計画は縮小され、「国鉄バス岡多線」の運行になったと考えられます。[↑昭和4年の蔵所橋。奥には、当時の瀬戸市役所]そんな時代背景のなかで生まれた、瀬戸記念橋駅から出ていた路線を思い出とともに紹介します。✽岡崎行き私が1番たくさん乗った記憶のある路線です。母の実家がある豊田市上原バス停まで、八草、篠原を経由して四郷の次が上原です。現在の愛知環状鉄道(第3セクター)の路線と似ていますね。5人兄弟でただひとり女の子だった母は、実家でとても大切にされていて、上原にいる祖父母や叔父叔母、従兄弟たちも私や姉にとって親しい存在です。じいちゃんちに行くことは、とても楽しみなものでした。この近くから瀬戸市へお嫁に来ている人もたくさんいて、瀬戸市内に知り合いが多くいます。愛知環状鉄道が運行し始めて、バス路線はだんだん短くなっていき、愛工大、宝ヶ丘(聖霊学園)行きがしばらく走っていましたが、廃線となりました。多治見、明智行き古瀬戸を経由して品野まで行くと、品野バス停車場です。運転手さんが休憩したり待機する場所です。(現在、名鉄バス「しなのバスセンター」となっています)ここで岐阜県の明智行きと多治見行きに分かれます。明智行きは、柿野、曽木を経由して明智光秀の出身地明智まで山道を走ります。多治見行きは、半田川を経由。蛇ヶ洞峠と呼ばれる曲がりくねった峠道を越えて、中央本線多治見駅が終点です。瀬戸のスキー好きは、この路線に乗って、名古屋に出ず、多治見から長野方面に行っていたそうです。客車の床に新聞紙を敷いて、夜行で寝ていったという話も聞きました。夏には、品野本町から右折して岩屋堂に行く臨時便が出て、清流のリゾート岩屋堂へと家族連れを運びました。高蔵寺行き記念橋発、瀬戸追分、水野を経由して定光寺、高蔵寺に向かいます。途中の目鼻石辺りは崖っぷちの曲がりくねった怖い道ですが、バスがダンプカーと行き交っていました。なお、瀬戸追分は、名古屋から始まる旧瀬戸街道が岐阜へ向かう「中馬街道」と「犬山街道」に別れる分岐点です。瀬戸追分には、広いバスの車庫がありました。名古屋駅行き記念橋発、瀬戸追分から旧瀬戸街道を通る、古くは「陶都線」と呼ばれる路線です。森林公園を経由して、守山市であった現在の守山区志段味を通り、矢田、大曽根から名古屋駅に向かいます。現在は、ガイドウェイバスゆとりーとラインが大曽根から守山を経由して小幡緑地まで走っているのみです。常滑ボート蒲郡ボート行きボートレースの開催される日には、無料送迎バスが運行されました。記念橋駅の上部看板も大きな「とこなめボート」「蒲郡ボート」が掲げられていました。勝ったら帰りはタクシー乗って、盛り場で豪遊。負けてスッテンテンになっても、無料で瀬戸まで連れて帰ってくれる親切なバスでした。「みどりの窓口」があった!かつての国鉄バスの主要駅には、“駅舎”が設けられ、みどりの窓口がありました。各種鉄道切符、新幹線、青春18切符、航空券まで取れました。私が、福岡県・柳川、長崎の寝台特急の旅をした時も、時刻表を開きながら、一筆書き(出発駅からあちこちの駅で寄り道しながら目的地の駅に向かう、またはぐるっと一周して出発駅に戻る片道乗車券の通称)の乗車券を作ってくれた親切な駅員さんがいました。売店もあったキヲスクになる前からあったので、売店と呼ばれていました。新聞、雑誌、瓶入り牛乳、お菓子。たばこもあったかもしれません。夏には岩屋堂に持って行くための浮き輪やビーチボールなどもぶら下がっていた記憶があります。ベンチが置かれていて、路線から別路線に乗り換えの人たちは、ここでひと休みして、先へと乗り継ぎます。今、瀬戸市を走るバスは名鉄バスのみに瀬戸市を現在走るバス路線は、コミュニティバス以外では名鉄バスのみです。このお話を書くにあたり、名鉄バスについて調べたところ、驚いたことに国鉄バス(JR)の開通以前に、名鉄バスの前身の一つ「尾三バス」の路線が、1927年(昭和2)に走っていました。名鉄瀬戸線の終点・尾張瀬戸駅から、赤津、飯野、大草の路線開通。瀬戸から渡合峠を越えて、藤岡へ行くバスです。この尾三バス路線が登場して3年後、国鉄バス(JR)が開通しているので、瀬戸に登場したバス1番は、民間も含めると、尾三自動車(名鉄バス)となります。[↑尾張瀬戸駅構内、タイル。蔵所橋と左奥に「瀬戸記念橋駅」駅舎の様子。ボールペン画:阿部繋弘]ほかにも、瀬戸周辺のバスにまつわるあゆみを見てみましょう。1967年(昭和42)名古屋駅に名鉄バスセンター開業。瀬戸では路線変更されながら、瀬戸駅前バス停を拠点に運行されています。1998年(昭和63)「愛知環状鉄道」が岡崎高蔵寺間全線開通。岡多線と呼ばれていましたが、岐阜県多治見市ではなく、愛知県春日井市高蔵寺に繋がりました。JRバス路線は徐々に縮小。記念橋駅は、2004年(平成16)8月廃止。その後、JRバスは愛知環状鉄道瀬戸市駅を始点としていましたが、2011年(平成23)9月30日廃止となりました。瀬戸と東京を結ぶ、夜間高速バス「ドリームとよた号」も2021年1月廃止。JRバス路線は、瀬戸市内から完全に無くなりました。✽瀬戸市の中心市街地の川沿いに島のように浮かんでいた記念橋駅。品野方面から来た一般車両は、事情を知らなければ直進してバス乗り場に突っ込みます。前を走るバスにつられて直進した車が後から来たバスに挟まれて困っていることもよく見かけました。また、尾張瀬戸駅を出発したバスは、蔵所橋を渡って駅に入っていましたが、現在蔵所橋も落とされてその姿はありません。[↑国鉄バス記念橋駅図。記憶を辿って作成。絵:マユミーヌ]景色の変わった記念橋。蔵所は、瀬戸市役所へ変わり、瀬戸市民会館へ。さらに、現在は産業・観光・市民交流支援施設「瀬戸蔵」になりました。蛇行していた道路も真っ直ぐになりました。今は、瀬戸蔵前に国鉄バス最初の路線を記す碑がひっそりと立っています。千年と言われる瀬戸の陶磁器の歴史は、古くから国の中央と結びついています。都と繋がり武将と繋がり、城と繋がって、近代になっては外貨を稼ぐ国の産業となります。しかし、自動車、電気機器の需要とともに国の後押しは無くなりました。それでもその後も瀬戸の人々はよく働き、さまざまな場所や人と繋がって、新しい歴史を作ってきました。それはこれからも続いていってほしいと願っています。ほんに瀬戸瀬戸良いところ瀬戸は火の町土の町チヨイト土の町🎶