仕事とわたし私が20歳の時のこと。勤めた広告会社の営業で、名古屋市港区、中川区、熱田区を回っていました。新人は、新聞の求人広告。大好きなバスも地下鉄も会社持ち、路線を乗り継ぎあちこち巡り、「お人集めの御用はいかが?」と。同じ仕事をしていても、男子の方が給料が良い。男女雇用均等法ができる前。苦労はあっても楽しかった。陸送の発達とともに人の取り合いになっていた運送業の社長ともたくさん仲良くなりました。でも、仕事への気持ちは? 行き詰まっていました。喫茶NISSINのはじまりさて、我が家のこと。喫茶NISSINの前身は、喫茶店ではなく、かしわ屋(鶏肉屋)でした。16歳で父が亡くなり、母と姉が支えてきました。配達先の八百屋、うどん屋が次々と閉店。スーパーの目玉商品には、鶏肉、玉子が毎日チラシに載ってきます。冷凍の鶏肉も当たり前に普及され、鶏組合のオヤジさんたちの元気もなくなってきました。どうする?やめて食っていけるのか?会社もかしわ屋も。動き始めた1980年。会社に辞表を出し、姉は組合を離れ、給食など配達先を組合のかしわ屋さんにお願い。「喫茶NISSIN」への準備が始まりました。名古屋市八事にあったクレープ店。それが目指すかたち。店舗デザイナーというのも新しかった頃、デザイナーさんを連れて、この店の床、こちらの壁、この家具。カウンターには、パイン(マツ)材を使いたい。クレープというものの説明から分かってもらえず、グレープ? そんなもん喫茶店で売れんよ、と言われながらも根気よく説明。焼きそばぐらいやらんとあかんという助言もごめんなさいと拒否。父亡き後、嫁入り前の女の子が水商売なんてとんでもないという、叔父叔母からの心配にも、笑顔で、大丈夫です、決して道に背くことは致しませんと説得。そんな時代でした。1ヶ月「富士コーヒー」で修行。コーヒーの抽出とパンの切り方。ドリンクのステア。本当に、ためになりました。自信を持ってのオープニング。従兄弟のよし君に、顔が怖いよ、笑顔、笑顔‼ と言われたから、ものすごく緊張していたんだと思います。喫茶店開店前から、かしわ屋天ぷら担当の初代店長たせ(真由美の祖母)は、胆のうを悪くして治療中でした。しっかり治すために1ヶ月の入院。それも、かしわ屋を閉める理由の1つでした。母は祖母の看護、私と姉は、メニューを決めたり大工さんと打ち合わせしたり。メインのクレープは、姉と試行錯誤。粉の分量、寝かせる時間、薄いながらももっちりした生地を作るために何度も試食しました。甘いものだけでなく、ハムやチーズ、ツナサラダ風、軽食的なハンバーグも。自家製カスタードクリームの作り方も「富士コーヒー」のバーテンさんから教わりました。店の外観は、重要でした。デザイナーさんは、パステル調のかわいらしいものを提案されましたが、それは違う。落ち着いたもので、中が見えるようにしたい。当時の喫茶店は、こっそり隠れて入る印象がありました。勤務中の営業マン、休講の学生、買い物途中の主婦が一服するのはサボってるとされていました。だから誰が居るか、外から分からないようにと。ダメダメ。あそこでお茶してるのイイなぁと思われる店にしたいの。喫茶NISSINは、ガラス張りになりました。祖母は退院して、店を見た途端、「明かるぅでええなぁ。」と言いました。むしろ照明が暗い、「まっと明るせなかん。」電気工事の人に、「こんなに電球要るの?」と驚かれたんですがね。商売が好きで、人好きだった祖母はクリームソーダが大好き。よく来店して近所の人とおしゃべりしていました。家具は、姉の友人の家具屋の息子さんが手配して、フィリピンからの大量注文の船便にうちの籐椅子を紛れ込ませ、運賃を浮かせてくれました。今は亡き家具屋の社長自ら、表のベンチ、トイレの鏡のフレームを手作りしてくれました。メニューは油絵のパレットに手描きで。表のイーゼルに黒板を置いてお勧めを書く。外観も内装も、43年殆ど変わらない喫茶NISSINです。長女がUターンして、一緒に働き始めて5年。少しづつ長女好みのインテリアに変わったものの、彼女も居心地よく感じてくれているのが嬉しいです。