昭和は長く、人々の暮らしが、ものすごい変化をなした時代です。私が生まれたのは昭和33年(1958)。物心ついたのが1960年代です。女の人は着物姿が多く、既製品の洋服はまだ少なくて、洋服は仕立て屋で作ってもらうか自分で縫うものでした。和服も仕立て屋に出すか自分で縫っていました。だから、繊維会社レナウンがテレビのコマーシャルで、レナウン娘が「ワンサカワンサ、ワンサカワンサ」「イエイエ」と歌い、おしゃれな既成服のイラスト映像はとても先端的で、「吊るし」「できあい」と呼ばれ、下に見られていた既製品がカッコよくなり、買うのがオシャレという大量生産の時代の前触れだったと言えるのかもしれません。せと末広町商店街には、紳士服のテーラーが2軒、婦人服のドレスメーカーが3軒有りましたが、徐々に既成服の店になっていきます。「せともの」も、流れ作業でどんどん作られます。日本各地、おもに九州から中学を卒業した工員が集められて、いこみ、仕上げ、絵付け、窯入れ窯出し、梱包の作業に精を出します。休日は月に2回。15日と月末の給料日の翌日。現金でお給料をもらった若者たちは、深川神社周辺の盛り場へ繰り出します。映画を観て、美味しいものを食べて、ダンスホール、玉突きや弓道場、パチンコ店に行く者もありました。中心市街地商店街はたいへんな賑わいで、その中心の宮前橋周辺は露天商が何軒も出てお祭りのようでした。「昔は賑わった」と懐かしむ人は、この日のことを言っているのだと思います。その人もまた、半月に一度の楽しい時間を過ごされたのでしょう。写真:桑原薬局のひとみちゃん、私、いつも縁台将棋をやっていた隣のおじぃ。普段の商店街はのんびりしたもので、子ども達は、日ごろ商店街の道路で陣取りや石蹴りをしたり、ゴム縄跳びしたり。軟式テニスのボールで「元大中小」と呼ぶ手打ちテニスに明け暮れ、お風呂からあがっても寝る時間まで外で遊んでいました。大人も縁台で将棋を指したり、風呂屋帰りの人が夏はうちわ片手に立ち話。相撲やプロレス、野球。話しているのは男性が多かったと思います。なんだかんだみんな外にいたのです。通りが賑やかなはずです。写真:「喫茶NISSIN」が、かしわ屋だった頃。天ぷらのウィンドウの前に立つ姉。天ぷらは新聞紙で包んでいました。昼間はというと、鉄板のある駄菓子屋に集まります。早い時間は、おばあちゃん達のコミュニティ。情報交換、おしゃべりの場です。学校が終われば子ども達の時間。糸に結ばれた飴を引いたり(当たりは大きな飴)、真剣におもちゃくじの1等ピストルを狙ったり。貸本屋を兼ねた店もありました。時は過ぎ、中卒の働き手が少なくなり、人件費は高くなります。安く、たくさん作るために、瀬戸のやきもの工場は韓国や台湾へと製造拠点を移し始めます。ひとと同じ流行りのものを選ぶのがかっこいい、という価値観に昭和は雪崩を打っていきます。働けば働くほど、幸せになれる。ひとと同じなのが幸せで、その上に立てば成功者。そうでしょうか。そんなことは、今の若い人たちは、とっくに気づいていますよね。次第に商店街は、お祭りに集まる人や安ければ良いという人よりも、毎日のちょっといい暮らしを求める、目のある人が集まる個人店の集まりとなっていきます。大量生産大量消費とは違う、それぞれに合った暮らし方を選べる街。買い物が物語りになる、そんな暮らし方が気持ちいいと思ってくださる消費者が、商店街を支えてきてくれました。本当にありがたいと思います。ほんに瀬戸瀬戸よいところ瀬戸は火の町土の町チヨイト 土の町♪