せともの祭 9月の第2土日、瀬戸に秋の始まりを告げるビッグイベントです。 始まりは、昭和7年(1932)。磁器を瀬戸に伝え広めた、加藤民吉に感謝を捧げるお祭りです。何故か必ず雨が降ると言われ、それが民吉が修行先で夫婦になった奥さんの涙だというのが、瀬戸の伝説となっています。 瀬戸で“磁祖”と呼ばれる、加藤民吉とは?民吉は、江戸末期、窯元の次男に生まれました。熱田新田(尾張藩が実施した最大規模の新しい耕地)の開発で働くうちに、父親と地元の偉い人に頼まれて、薄く白い磁器を瀬戸で焼けるよう九州で修行してくることになりました。 奥さんを残し、ひとり九州へと旅立つ民吉。跡取りにしか教えられない秘伝の技を知るために、磁器窯元の娘に近づき、婿として窯場の修行をさせてもらったとか。そして瀬戸に戻り、原料の配合、成形、絵付けを職工たちに伝授して、瀬戸染付の基をつくったとされます。 さて、九州の娘さん、いえ、妻。子どもを連れて民吉を追って瀬戸にやってきます。そこで見たのは、民吉の妻!! 悲しみのあまり、あま池(以前祖母懐町にあった池)に飛び込んで、子どもと共に命果ててしまいました。その恨みの涙が、せともの祭に降るという。 民吉は罪深い?はい、ここで一度整理してみましょう。民吉の罪は、2つ。①産業スパイ ②重婚その謎を解くべく、瀬戸市美術館に行って参りました。 まず、瀬戸では民吉以前に染付磁器が焼かれていました。その始まりは、1781年辺りに肥前から下品野に逃亡してきた工人、副島勇七が加藤粂八に成磁法を教え、研究されていました。 民吉の生家大松家、近所の古狭間家という窯元でも、染付磁器は作られていましたが、まだ未完成でした。 民吉を導いたのは、お寺さんです。お寺の紹介で熊本県天草へ。そこのお寺から紹介されて、窯元上田家職人となります。 その後またお寺を頼り、長崎県佐世保市を経て、長崎県北松浦佐々町の窯元福本家で3年修行。上絵の技術を教えてもらいたいと、有田の錦手窯を見学したものの、万一教えたことがバレると命に関わると断られます。 その後帰国するため上田家に挨拶に行き、その事を話すと熱意を汲んだ当主が口伝えに秘密を語ったという文書が残されています。 民吉が瀬戸に帰って後、瀬戸染付は発展を遂げ、素晴らしい技法はさらに磨かれ今に至ります。 さて、民吉さん。①産業スパイではなかった。お寺の縁が取り持つ研修生。秘伝はそっと口伝され、娘の婿になる必要がなかった。 ②なのでまあ、ちょっとしたアバンチュールは有ったかもしれんけど、重婚罪も無し。というわけで、瀬戸もんとしては晴れて民吉さんの偉業を讃え、感謝して、お祭りを楽しむことにいたしましょう。♪ほんにセトセト良いところ 瀬戸は火の町 土の町 アチョイト 土の町[参考]瀬戸染付 開発の嫡流-大松家と古狭間家を中心に- 瀬戸市美術館