1958年生まれの私が小学生だった頃。クラス名簿の連絡先が呼び出し電話の人が、かなりいました。自宅に電話が無い事が公表される上に、電話を貸してくれるお宅の名前、番号も公表されるなんて、今なら考えられませんね。お風呂の無い家も普通にあり、夕方お風呂屋に行くと同級生に会うのが当たり前でした。そこには中学を卒業してすぐ、親元を離れて就職したお姉さんたちもたくさんいて、皆住み込みの寮生活をしていました。夜間高校に通いながら、殆どが輸出向けの生産に関わっていたと思います。安く、たくさん、つくることが最良だった1971年8月27日、ドルの変動相場制が翌日から始まることが決まりました。それまで1ドル360円と固定されていたのが、毎日変わることになったのは、瀬戸の輸出製品にとってどんな影響があったのでしょう。人件費は、年々上がります。オイルショックがやってきて、燃料も上がってきました。瀬戸の工場は、人件費の安い海外に出て行き始めます。韓国や東南アジア。社長や、職人が先生となって、現地の指導にあたります。跡取りの息子さんたちは、殆どが海外留学しました。「これからは、英語喋れんとあかん」と。行き先は、アメリカ西海岸が多かったようです。カリフォルニアの青い空の下、瀬戸の若者たちは何を学んだのでしょうか。安く、多く作ることが最良とされ、せとものは薄利多売のイメージがあります。明治初期まで手描きだったものが、銅板転写、ゴム印押し柄(印判)など、手間を省き、たくさん作る知恵を絞ってきました。瀬戸市内に印章店(判屋)が多数あったのも、この為です。“ペケ屋”という商売ペケ屋と呼ばれる、検品でハネ出された二等品を安く仕入れて安く売る問屋が有ったのも、ひとつの原因でした。ペケといっても段階があります。一番良い品を上にして、下の方はキズやほくろ(鉄粉)入り。10個縛って1,000円。「良い物だよ、デパートでなら3,000円の品もんだ! さぁ買った!」フーテンの寅さんも売っていたかもしれない。海外に出ず瀬戸に残った窯元、量産をやめて作家となった人、不動産業に転じた人。自動車部品を作り始めたり、ファインセラミックに舵を取り、成功しているところもあります。その中で、せとものを作り続けて、代替わりしている窯元は本当に努力され、素晴らしいですね。煙突が林立してモクモクと煙を上げていた頃、瀬戸は若者の町でした。改革が進めば人は減らされます。窯元が多くあった瀬戸中心市街地は、高齢者の街になり、名古屋へ通勤する人の家族は団地に暮らし始めます。現在また、新しい目的や活動をするために、瀬戸を選んでやってきた若い人たちは、誰かに集められたのではなく、自分の目と感覚で瀬戸が魅力的だと言ってやってきています。頼もしく、嬉しいことです。ほんにセトセト良いところ瀬戸は火の街 土の街アチョイト 土の街※今回の取材のため、1954年生まれの瀬戸っ子、加藤K3さんに協力していただきました。