少しヘンテコな人が、ちゃんと働ける瀬戸の街私がこどもだった、昭和30年代。深川神社の前の公園は、年寄りや子どもが集まる憩いの場でした。朔(月はじめ、1日)・15日は、工場の給料日。参道に露店が並び賑わうのですが、それ以外の日も屋台が出たりしていました。宮前橋はずっとこの広さで、まだ車が少なかった頃、橋は広場のような役割をしていました。演説をする人、チラシを配り宣伝をする人。傷痍軍人(戦争で手足を失った人)が松葉杖をついて立ち、ハーモニカやラッパで支援をお願いしていました。前衛芸術家のパフォーマンスも行われました。それを見物する暇つぶしの人もいて、いつも賑やかでした。いろんな人がいて、それぞれの思いを伝えようとする場所だったのです。[写真:1926年に竣工された宮前橋]思い出すと、ヘンテコな人もたくさんいました。「オイサ」と呼ばれる男性。歳は2、30代で、毎日同じ時間に「オイサ、オイサ」と声を出して歩いてきます。おそらく同じルートで。たまに子どもが後をついて、オイサオイサと囃し立てて付いていくことがありましたが、怒りもせず、自分のペースを守っていました。長い間に、変わった人は移り変わり、「ニッタ」が現れます。彼は、いつも口角が上がりニタッと笑っています。40歳くらいの男性で、フリルのついた女性物の派手なブラウスを着て、パンタロンを履いてなかなかおしゃれさんでした。どこかの工場勤めらしく、朝夕の通勤時間が小学生と重なるので、子どもたちにからかわれても平然と笑顔を絶やしませんでした。定年退職したらしく、最近はお見かけしません。他にもまだまだヘンテコな人は絶えることなく、街を闊歩していましたが、この頃はお見かけすることが少ないですね。車移動なのかな?様々な工程に分業された瀬戸の産業。多種多様な仕事があり、少しくらいの障がいがあってもできる仕事があったのだと思います。障がいのある方も、働ける街赤津に、はちのす寮という、知的障がいの方が集団生活する施設がありました。ご夫婦で運営する私設のもので、障がい者でもできる仕事を探し、部屋を提供。お給料を管理して、生活だけでなく健康(障害のある方は体の不具合に敏感でないので)と安全(お金を持っていると騙す人がいます)を見守る施設でしたが、10年ほど前、ご主人が亡くなって閉鎖されました。その住人の方が何人か、休みの日に私の店を利用してくれていました。皆、何かしらの仕事につき、お給料を管理してもらい、休みの日にはお小遣いとしてお金を持って、映画を見たり飲食したりして楽しんでいました。住人のまとめ役だった女性は、年金をもらうようになって、陶芸教室に通っているのと楽しそうに話していました。ご主人の親戚から、以前聞いたお話。奇声を出して、言葉が通じない知的障がいと思われた女性が、お釣りの計算をちゃんとできるのを知った奥さん。書いたり、手振りしたり様々な質問をゆっくり丁寧にしてみると、彼女はとても頭がいい。耳が聞こえていないだけだとわかりました。それから簿記を習い、事務職として就職したそうです。見守る人がいたからこそできたことですね。女性が働かないなんて、もったいない[写真:瀬戸蔵ミュージアムで撮影したモロ(作業場)]瀬戸の女は元気がいい。「あんた何やっとるの?」という質問は、女同士が会うと必ず出る会話です。どこの工場か、仕上げか、絵付けか、ノベルティの花作っとるのか、内職なのかと聞いています。主婦だというと、「はぁん、もったいなぁ何にもやっとらんのやね」と言われてしまう。それくらい女性が必要とされる仕事がたくさんあったのです。モロと呼ばれる窯元の仕事場にはいつもラジオが大音量で流れ、窓のあかりに向かってせっせと仕上げをする女性たちの背中がありました。フリーランスの職人が存在していた[写真:薪で炊く登り窯の様子]窯焚き専門の職人もありました。会社に所属せず、フリーです。洞の窯元の元お嬢さんが、昔話に教えてくれたお話。窯を詰めて明日火入れという時に、窯を焚く職人の所へ、「明日必ず来てよ。よそに行かないで」と頼みに行ったのだそうです。「その人ね、お酒飲みで朝鮮の人なんだけど、腕がいいのよ。他の窯に行かれちゃ困るの」焚き手は、窯元のお嬢さんより偉いのです。男女を問わず、短期の仕事をする人もありました。今週は茨、次は洞と、窯詰め、窯出しに出かけます。そんな流しの人をまとめる仕事をする人もいました。“口入れ屋”というのでしょうか。いつ、どこの窯に何人要るか、集めて派遣するのです。工場が近代化して、固定した従業員を雇うようになると、口入れ屋さんはバス旅行のお客集めをして、知多の札所巡り、知立の三弘法巡りなどを企画してお年寄りを楽しませていました。昭和3、40年代はお参りが行楽だったのです。朝鮮人のみなさんは、よく働いた瀬戸に朝鮮半島から仕事に来た人々。日露戦争の勝利の後、1910年日韓併合が行われて、日本は朝鮮半島を実質上領土とすることになります。人も物も国内とさほど変わらず流通したようです。太平洋戦争中、朝鮮半島の小学校は日本国民学校となり、名前も日本名を名乗るよう変えられ、日本語教育がされました。日本の若い男たちは軍隊に招集され、鉱山や窯の焚き手が不足した瀬戸には、朝鮮から男の人が多くやって来たり、連れてこられたりしたと想像されます。前の家業のかしわ屋のお客様には、朝鮮の人が数多くいました。「朝鮮の人」と両親は呼んでいました。お正月と旧正月前には、丸どりの注文が入ります。内臓は出すのですが、家によって、首を取る、残す。足を取る、残す、という違いがあって、お祝いの大切な物なので間違いのないようにと、気を遣いました。どんな料理になるんだろうと興味がありました。今思えば参鶏湯だったのかなぁ。米屋をしていた叔父は、同じ時期、朝鮮餅(トック)の注文で忙しくしていました。うるち米を粉にして何度も練り、飴のような滑らかな棒状にします。包丁で斜め切りにするのが難儀で、手が痛くなるとこぼしていました。丸どりと一緒に煮込んだのだと思われます。陶祖公園の近くに住む、私と同じ歳の男の子。お父さんは日本名でしたが、小学校は民族学校に入学しました。瀬戸市にある、愛知朝鮮第7初級学校です。移転して、中華料理店を開いたお父さんは、店内に作った小さなホールに様々なアーティストを呼びます。シャンソン、民族舞踏、民族音楽、映画のひとり語り。その度にうちに来て、よろしくとポスターと案内を置いていかれました。様々な文化を瀬戸に根付かせたい思いが強く、まめな人でした。民族学校に行った息子さんは、今、現代美術陶芸家として活躍していらっしゃいますが、朝鮮での名前を名乗られています。農家を回って、くず米を買いつけどぶろくを作ったり、豚の内臓を仕分けてきれいにし、ホルモンを売ったり。朝鮮の人は働き者だと私の母はよく言っていました。また、瀬戸で成功した男性は、朝鮮に置いてきた妻を呼び寄せることもありました。私の店のお客様で、日本語が全く話せないおばあちゃんがいました。息子のお嫁さんから、言葉もわからないし日本のお金の勘定もできないから、とにかくコーヒーとバタートーストを出して、と頼まれて、会計は後でお嫁さんが支払いに来られます。色白の綺麗なおばあちゃんで、ニコニコといつも穏やかな方でした。おそらく家と喫茶店しか行くことがなかったと思われ、できたら仲良くなりたいと話かけてみたのですが、いいのいいのという感じで手を顔の前で振って、また笑顔。余計な話をするなと、ご主人に言われていたのかな。集団就職で大量にやってきた若者たち[写真:1935年頃に撮影された、深川神社参道の様子]昭和30年代、輸出が最盛期の瀬戸の街にたくさんの若者がやって来ます。寮に住み、休みは朔と15日。長期休暇は、お正月と8月の初めとお盆時期。せいぜい3日間ずつ。休みの前には会社でお楽しみ会があって、歌や踊りの会が食事と共にあったそうです。これは、瀬戸は楽しい、会社は良くしてくれると印象づけ、親元に帰っても戻ってきてくれるように、また、良いところだよと後輩を誘うために。何故か「山行き」と呼ばれる社員旅行が年に一度ありました。大型バスで観光地を巡り、集合写真を撮ります。これも社員の心をつなぎ、勤労意欲を高めるものでした。「山行き」前には、お出かけ用に新しい洋服を買う女性が商店街に押し寄せ、友達同士で買い物をするのが恒例でした。女も男も、ルーツが何処でも、瀬戸のもんは働き者「賃引き」「日給月給」という報酬を表す言葉があります。「賃引き」とは、ろくろを引いた数で支払われる給料。「日給月給」とは働いた日数で計算される月給。瀬戸へ行かんでどこへ行くといわれた瀬戸の街。その言葉には、いろんな個性やルーツがあっても仕事がある。働き方も色々。そんな意味が込められていると思います。働いて 働いて、風呂屋に行って一杯飲んで。働いて 働いて、きれいな洋服で親兄弟に土産を持って里帰り。働いて 働いて、異国の地でも根をおろし家族を守る。障害があっても、ヘンテコな人も、女も男も、ルーツが何処でも、瀬戸のもんは働き者。瀬戸は火の町土の町チョイト土の町