鯉のぼりを立てると、男子が早死にする!?[写真:泉霊園から、陶土鉱山を望みます]青空に勢いよく泳ぐ鯉のぼりは、男子の成長を願う親心。なんですが、瀬戸市のある地域では5月になっても鯉のぼりを見かけません。それには、“落武者伝説が”関わっているのです。鯉のぼりを立てると、男子が早死にするという、不吉な言い伝えの始まりは、450年ほど前に遡ります。大河ドラマでもよくテーマとなる戦国時代。小さな国同士の争いは止むことなくあちこちで続き、瀬戸もまた、平和ではなかったのです。戦国時代の瀬戸。陶工集団は美濃国へ。[写真:瀬戸蔵ミュージアム。土岐市元屋敷と瀬戸市穴田の窯跡]尾張の西北、三河、美濃に近い瀬戸。市内山口地区や隣の尾張旭市には「棒の手」という、農民による自警団の歴史もあります。戦いに乗じた略奪や狼藉に農具を用いて警護するものです。けれども、瀬戸の中心市街地にはその伝統はありません。それは何故でしょう。猿投窯をはじめとして、古窯の点在する瀬戸市東部。土を求め、薪を求めて移動する陶工集団は、争いに巻き込まれては仕事になりません。できるだけ条件のいい、争いごとのない所で窯を築きたいと思うでしょう。そこで、陶工集団は、「瀬戸山離散」。美濃の国、現在の土岐辺りに移動していきます。京都に通ずる中山道にも近い地の利があり、陶土もふんだんにあります。さらに茶の湯が流行り、銘品と言われれば莫大な価値が付きます。織田信長の台頭により、京都、南蛮との交流が生まれ、新しい意匠や釉薬の研究も進んで、安土桃山の茶陶の全盛期を迎えます。[写真:行燈皿。瀬戸に陶工が戻ってからのもの]さて、そんななか1556(弘治2)年に、織田信長と弟である織田信勝の内紛「稲生の戦い」が起こります。離反する弟を成敗する信長。稲生は地名で、名古屋市西区庄内川に近い所です。負けた信勝軍の兵士が東へと落ち延びます。 瀬戸までやってきた13名だったが、もはやこれまでと自害。現在の瀬戸市役所の東に位置する、瀬戸市十三塚町の由来です。この事を先祖代々のお墓がある菩提寺に伝える者として、1人だけ品野方面に逃します。使者とは知らない、瀬戸市の中心市街地にある深川連区の宮脇町あたりの農民が、持ち合わせた竿か棒で叩き殺してしまいました。※この出来事は、小牧長久手の戦1584(天正12年)の時のことかとも伝わっていますが、現在は稲生の戦いというのが正しいとされています。戦国時代が幕を閉じ、瀬戸の陶工たちが美濃国から帰ってきた! 本能寺の変で織田信長が亡くなり、時代は更に変動します。小牧長久手の戦いで負けた徳川家康は、さまざまな辛酸を舐めます。秀吉に言いつけられた江戸開発も、その一つ。当時の江戸は、ただの湿地。人も住まない葦原(あしはら)です。しかし家康は重き荷を背負い坂を登るが如く、一歩一歩開発を進め、都市建設していきます。人が住み、食べたり泊まったりするには、焼き物が必要となります。徳川家康は、陶工を尾張に呼び戻し、水瓶、行燈皿、生活に使える道具を作らせます。そして、天下分け目の合戦、関ヶ原の戦い。家康は、1903(慶長8)年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。天下を統一する事が叶いました。名古屋城には、九男徳川義直が初代城主となります。瀬戸の陶工は尾張藩から大切にされ、せとものは、ますます盛んになっていきます。鯉のぼりをあげたら、落武者がやってくる!?さて、江戸中期に流行し始めた鯉のぼり。瀬戸は暮らしも豊かでありましたから、多分たくさん立ったのでしょう。しかし、流行り病か、男子が早死にする事が続きます。もしやこれは、アレのせいじゃないか?あの侍、間違って殺してしまった。 武士は、どのような最後を遂げたのかが大切とされています。そんななか、農民に殺されたなんて、武士の恥です。恨みたくもなるでしょう。時系列としては、ずいぶんと時を経ていたものの、そうした噂説が浮上。そうだ、鯉のぼりがいけないのだ。そこに男の子がいる事が丸わかりじゃないか。わからなければ祟られないんじゃないか。そうそう、見つからないようナイショにしておこう。その後、男子は健やかに育ったそうです。[写真:泉霊園に新たに建てられた落武者の碑。管理の方によると、12、3年前に建てられたそう]というわけで、鯉のぼりは、瀬戸市深川連区あたりでは今も立てられていません。深川小学校の北、泉霊園には今も落武者の供養碑が建っています。ほんに瀬戸瀬戸よいところ瀬戸は火の町 土の町チヨイト 土の街