こんにちは、南慎太郎です。初回は、自己紹介とやっている事業、どうして瀬戸で活動しているのかについて書きました。まだのかたは、ぜひ読んでもらえると嬉しいです。 → 大学卒業後、地元で宿を起業。南慎太郎は何者なのか? 第2回では、なぜ大学卒業後にUターンして宿を起業したのかをお届けします。と思っていたのですが、書いていくうちに「やっぱり高校生の話も必要だな」とか、「小中学生の頃に伏線があったのかもしれない」、と迷走してしまい、今回はまだ瀬戸にUターンできません。僕が「起業」という道を選ぶ背景が垣間見える学生時代の話を読んでください。 瀬戸市で生まれてから中学校まで僕は、1994年に瀬戸市で生まれました。エリアは、今僕が主に活動している尾張瀬戸駅周辺ではなく、西陵地区という住宅街です。(瀬戸は意外に面積も大きく、人口も約13万人暮らしているため、エリアによって町並みも歴史も人も異なります)西陵地区は、名古屋に出勤する方のベッドタウンという面が大きく、焼き物などの瀬戸の歴史的な面には、あまり気が付くことがなく育ちました。尾張瀬戸駅の辺りに来るのは、1年に1回の「せともの祭」。もしくは、母に連れられてたまに商店街へ買い物に来るくらい。小中学生の頃は、野球部に入って熱心に練習していました。けれど、基本的に補欠で、試合に出られてもライトで8番。子どもながら向いていないと悟ります。素振りはチーム内でも随一の早さだったのですが、バットにボールが一向に当たりません。外野で守備をしていても、フライがどこに落ちてくるのか、全然わかりません。一方で、勉強は自分に向いていました。野球や遊ぶ時間を確保しながら、テストで良い点を取るにはどうしたら良いのか、勉強法を工夫するのが楽しかった記憶があります。そして、高校は名古屋の公立進学校を受験し、入学しました。ラグビーに明け暮れた高校時代高校では、勉強は一切せず、部活に熱中していました。といっても、野球の才能はないと諦めていたため、先輩から熱心な勧誘を受けたラグビー部にはいりました。このラグビー部が、それはそれはスパルタな環境でした。ただ、筋肉質なこともあり、比較的向いていたようで、2年生からレギュラーに。けれども、花園出場は叶わず、高校3年生の秋に部活を引退。その後の進路を考えた時に、地元を離れて、ひとりで暮らしてみたいと考えました。当時、食品関係に興味があり、「食べ物の開発などの仕事がしたい、その上で研究だけじゃなく畑などでの実習もしたい」と考えていた僕は、「北海道には美味しい食べ物がたくさんある」「北海道大学は構内にやたら広い農場があるらしい」という理由で、1年の浪人ののち、北海道大学を受験し合格しました。『じゃがりこ』よりも有名で美味しいお菓子をつくってやると意気込んで北海道へ乗り込みます。自分の才能に歓喜した大学1年目部活はもういいかなと考えていたのに、大学でも変わらずラグビー部に入部しました。「北海道は年の4分の1は雪で埋まるため、オフの期間が長い」というポイントに惹かれたからです。あとは、急に自由な時間が増えることに不安だったのかもしれません。大学1年生の頃は「本気で優等生になってみよう。その上で遊ぼう」という、とても健全な目標を立てました。「授業」「英語学習」「部活」「アルバイト」「遊び」「睡眠」「旅行」を全て実現するために、頭をフル回転させ効率化を求めました。結果、授業成績は学年3位(1,600人中)。TOEIC(英語のテスト)は530点から870点へ。ラグビーも1年目から控えメンバーに。パチンコ台を閉店後に取り替える怪しげなアルバイトで効率的にお金を稼ぎ、友人とカラオケしたり、旅行へ出かけました。1日8時間睡眠、健康的で有意義な生活です。ふたつ目は「恋愛」。僕の希望している学科に、好きな先輩がいて、応援してくれていました。これ以上は詳しく書きません。以上です。結果、希望していた農学部の学科に進学でき、大満足の大学1年目です。 絶望の2年目大学1年生の冬。部活も休みになったので、友人とスノーボードにいきました。平坦な場所でつまずき、肩を脱臼します。ラグビーでは、大きな怪我をしたことがないのに。部内で冷ややかな目で見られることに。その後、手術を行いました。春になり、新学期がスタートします。僕が必死に勉強して入った学科には、希望していた食品関係の研究室がありました。しかし、急遽その研究室の教授が大学をやめることに。その他に選べる研究室の中には、食品関係はありませんでした。ほとんどが植物の病気についてで、1mmも興味がありません。唖然としました。また、怪我によりアルバイトができなくなり、友人と遊んだり旅行に行くお金が底をつきます。そして、好きだった先輩に彼氏ができました。誰よりも先に僕に教えてくれました。その頃、脱臼の手術から半年が経ち、リハビリの様子と途中経過を病院で検査したところ、手術ミスが発覚。再手術となりました。目標がなくなって、勉強、部活、アルバイトといった生活を構築していたものへの機会と熱量が失われて、精神がボロボロで、眠れなくなりました。そんな中でも、体育会系で身についた謎の義務感からか、最低限は大学に通って、部活にも顔を出しながら、留年しないだけの単位は取りました。友人と会うときも、できる限り平気なふりを取り繕って過ごしました。けれどもうまくいかず、友人関係もどんどん崩れていきました。やることもないし、やる気も起きない。大学に行っても、美味しいものを食べても、友人と会っても、好きだった漫画を読んでも、ラグビーを見ても、感情が動かなくなりました。それまで自分が好きだったモノ、コト、ヒトが離れていって、関心を持つだけの体力もなくなり、自分が世界と全く繋がっていないような疎外感にずっと襲われていました。歓喜の1年目からの絶望の2年目。すべてが裏返りました。(ここからようやく心が整ったのは、ますきちがオープンするころ。徐々に立ち直っていき、約3年半かかりました)惰性と内省の3年目3年生の対外的な記憶は、おぼろげにしかありません。なんとか惰性で大学に通って、時折頑張って立ち直ろうとするけど、上手くいかずに人間関係がこじ拗れて。彼女ができたけれど、心が安定しなくて、うまくいかずに別れて。「なんとかしないと」と張り切る時と、どうにもならず何もできない時が交互に現れて不安定でした。この時、僕と関わってくれていた人には、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。ごめんなさい。ただ、時の流れによって、本当に少しずつですが心が回復して、徐々に読書と散歩ができるようになりました。そのため、ずっと内にこもって「自分自身と身の回りの関係」について考えていました。「好きな事」「得意な事」「普通」「執着」「こだわり」「日々の幸せ」「自分と他人」「役割」といったことが当時の主なテーマで、今でも僕自身の考え方の根幹になっていると思います。 あの頃、考えていたこと 1)好きなことや人、場所」があることで、人間は世の中に関心を持って、「日々を幸せ」に過ごすことができる。2)物事に興味を持って、「好き」になって、さらに感情が進んだ先に、「こだわり」や「執着」が生まれるのなら、それは人間らしくて美しい心の動きなのだろう。 自分には、まだ強い感情は持てないから、まずは少しでも関心がもてる物事を探そう。3)自分が、関心を持つことができて、「好き」なもの、人、環境を大切にしよう。4)多くの人が、自分自身のことを「普通」だと思っていて、周囲から「当たり前」を求められることはあるけど、自然に過ごす中でも、それぞれの人に得意不得意がある。自分が「普通」にやってきたことの中にも、「得意な事」があったのかもしれない。5)世の中の「普通」の基準に合わせてうまくいかないこともあるのだから、自分の「得意な事」を活かして、「役割」を探して生きていこう。6)よりかかるでもなく、突き放すでもなく、お互いの「得意な事」で協力できる距離感が、「自分と他人」の心地よい距離感なのだろう。そんなことをずっと考えて、時折人に会って、コミュニケーションに失敗したり、仲良くなったりを繰り返すようになります。地域の魅力に気づく、九州縦断旅行 また冬が来て、長期休み。学部の友人と九州縦断旅行に行きました。これ以前の僕が行った旅行は、有名な観光地だったり海外の首都だったりを見に行くことが多かったのですが、今回の九州旅行では、有名観光地だけでなく、いろんな町に車で立ち寄りました。印象に残っているのは、熊本の阿蘇。お金も少なかったので、ゲストハウスに宿泊。そうしたら、その宿のスタッフが、阿蘇の歴史や、地元の人が行く定食屋やパン屋、ローカルコンビニなどを教えてくれました。そうしたら、町に興味が湧いて、歩いて回ることがとても楽しかった。その後の九州旅行も、町の人に話を聞くようになり、観光が楽しく主体的なものになりました。この時、有名な観光地や都市じゃなくても、地域ごとの魅力や面白さがあることを知りました。特に、歴史が深い町は自分の好みでした。旅行から帰ると、大学3年生も終わりに。就活の時期がやってきました。 次回予告第2回はここまで。あまりこれまで人に話してこなかったナイーブな部分なので、まとめるのに時間がかかりました。ただ、やっと文章にまとめられたことで、少しほっとしています。今僕が元気に暮らせているのは、「ますきち」などの活動を通して、いろんな人に助けられてきたからだなと改めて実感しました。次回は、大学4年生の頃。「瀬戸でゲストハウスを開こう」と決めるまでの話です。頑張って書きまーす! 僕の連載タイトル「ますきち5周年への道」なのに、ますきちオープンまで行き着くのが長い。。。