「せと銀座通り商店街」にある、1924年創業のお茶の専門店「お茶彦」。商店街でもっとも古いお店のひとつで、地元のみなさんから、長年にわたってこよなく愛されている。わたし自身も、家で年中飲んでいる麦茶は、1袋がとっても濃い「麦茶ナンバーワン」。夏には「抹茶ソフトクリーム」や「グリーンティー」など、お店にはさまざまなオリジナル商品があふれている。「茶摘みの4月の終わりから5月は大好き!」と、茶摘みの時期には産地までおもむく。お茶屋ひと筋の店主・河本篤さんによる、お茶彦ストーリーがとてもおもしろかったので、ご本人の語りのままお伝えしたいとおもいます!お茶彦の由来は「彦一」というのが、うちのおじいさんで、名古屋の志段味出身で、農家だったの。農家がいやで、当時、やきものでにぎわっていた瀬戸に出てきて。俳句を詠む“風流人”だったの。食っていかないといけないので、愛知県の豊田市や安城市からお抹茶を仕入れて、自分で抹茶を挽く機械つくって、販売に行って。簡単にいうと、行商だね。瀬戸市内の洞にある窯屋さんに持って行っては、そのまま座り込んで、ちょっと一句とかいって詠んだりしてね。そういうひとだったと聞いています。その後、お袋が継いで親父は婿できた。銀座通りは婿が多い。よう働くんだって、婿が。煎茶を仕入れはじめたのは、親父の代になってから。もともと瀬戸は抹茶を飲む土地柄だから、お嬢さんたちは稽古していたし、お嫁にいくときは必ず茶道具一式あった。団塊の世代の人たちが、嫁に行くぐらいその辺までだよね。僕は高校のときから手伝ってたけど、実家におったら、遊べえへんと思ってね。名古屋の大学だったけど、わざわざ下宿して。卒業後は東京の吉祥寺にある「山利屋」さんにお世話になって、丁稚奉公で3年間働いた。楽しかったわあ! 寮には、愛知県一宮市出身の親友も一緒だったから、休みになれば、渋谷行ったり、新宿行ったりね。それから瀬戸に帰ってきて、1985年に結婚。当時は店を継いだら、大きくしなかん! という、観念にとらわれていた。成長の時代だった。生まれてから、ずっとそういう感じできているから、縮小するなんて恥と思っとったわけ。うちは大型スーパーのテナント中心で動いていたもんだから、年中無休が当たり前。時代に合わせて、がむしゃらに働いた。でも今はもっと丁寧な接客が大切だよね。きちんとやっていくところが残っていく。今年5月に、お茶彦の瀬港店を閉めたの。オープニングスタッフがクロージングスタッフになったぐらいみんなでやってきた。ぼくには、見にくるだけでいいからって、ぜんぶ片付けてくれた。20年以上だったから、自分の店みたいなんだよね。車で荷物のっけて、あっという間に片付いちゃった。 もうじき、創業百年になる。うちのおじいさんは、一体どういうつもりで店をはじめたのかなあ、ということを考えるわけ。この機会に、忙しいだけの商売じゃなくて、ここを始めたおじいさんの気持ちを省みながら、自分もまた生まれ変わった気分でやってみたいなあと思っている。一から創業するような気分。 とくに、創業していく若い人見てるとね。2022年4月に同じ商店街でお店をはじめた「little flower coffee」の本田君と話してると、すごく刺激になる。彼はコーヒーのことを伝えていて、お茶にもお茶の世界があるのに、伝えきれていない。お茶屋としてできることがまだいっぱいありそうな気がしていて。それぞれの商品に魂を込める。これからはそういう商売がしていきたいな。 * お話を聞いていると、これからはライフスタイルも大切にしながら、もっとお茶のことをしっかりと伝えていきたい、という想いがひしひしとつたわってきます。お茶について質問をすれば、なんでもしっかり答えてくださるので、いつものお茶をお茶屋さんで選んで、飲んでみませんか?