はじめのご挨拶こんにちは! 私は「瀬戸本業窯」と言う窯元の“八代目”です。日々、器をつくりながらあれやこれやと駆けずり回っています。 この頃は、若手ともベテランとも呼ばれない中間者(44歳)として伸び伸びと働かせてもらい、家族は妻と娘2人、両親とは二世帯住宅と言うシステムを取りスープの冷めない距離で暮らしています。“せともの”を産する愛知県瀬戸市の窯元にたまたま生まれた私は、当たり前のようにやきものをつくりながら生きる、いわゆる想像通りの“瀬戸人”です。そんな私の“これまで”と“これから”の「駆けずり回り」とその理由(ワケ)を連載させていただく機会をいただきましたのでご興味いただけましたら嬉しく思います。どうぞお付き合いよろしくお願いいたします! 瀬戸本業窯とは?瀬戸本業窯がはじまったのは今から約250年前のこと。“瀬戸焼”1000年の歴史から見れば4分の1ほどの蓄積で、新しいのか古いのかよくわかりませんが、年号で言えば江戸時代・文化〜文政頃が創業になります。場所は現市街地エリアのすぐ東に位置する丘陵地帯「洞」にあり、山の斜面を利用して登り窯を築きやきものをつくってきました。洞の歴史は鎌倉時代に遡りますが空白になった時代もあり生産が本格化したのは江戸後期からと言われています。なにをつくってきた?それは、暮らしに必要な皿、鉢、甕、壺、瓶などの実用陶器で、具体的には日常でよく使う皿、茶碗、湯呑、花入などです。どうやってつくってきた?作り方は反復を基とし、職人たちが、地元で手に入る資源を用い、可能な限り“手仕事”で作り続けてきました。名称は言わずとも、「瀬戸焼」「せともの」「本業焼」のどれでも合っていますが、そこにあまりこだわりがないのも事実です。体裁や格式よりも使うことが優先で、少しでも長く使っていただけるよう努力を重ねてきました。だれが?三代当主「半次郎」の名を代々襲名し、現在は父が七代半次郎、私がバトンを受け取れば八代半次郎となります。半次郎という名の意味は、「半人前の気持ちを忘れず謙虚であれ」と聞かされています。当主は采配や舵取りだけでなく自ら現場に入り、職人たちと共に、時世を見据えながら働いてきました。当主自ら現場に入る理由は、職人たちから技術者としても認められなければ指示を聞き入れてもらえず取りまとめることができないからです。職人たちは技量を物差しとして誇り高く生きているのです。そんな彼らの力なくして達成することは難しく皆で協業することが必要不可決でした。規模はどの時代も10人前後で、子供も女将も家族総出で手伝いをしながら暮らしていました。 なに者?ここまでの話しで、私は、私たちはいったいなに者なのか。陶芸家?職人?作家?先生?どう想像されるかは自由ですし、これでなくてはとも思っていませんが、なに者かと聞かれれば仕事の性質から職人(陶工)と答えます。私=職人(陶工)=水野雄介=八代半次郎私たち=職人集団(陶工集団)=瀬戸本業窯=窯元意識と無意識多様で物にあふれた現代では境や幅がわかりにくく、人が作ったのか、機械でできたのかなど気にすることもなく時間が過ぎていきます。好きか嫌いか、高いか安いかだけで振り分けられてしまうことも。裏側にある苦労や物語を気にしなくても暮らしは便利です。無意識に暮らすことが決して悪いことではありませんが、時に意識を持たないと自分がいる意味やものづくりをしている理由が埋もれてしまうような気がして不安を感じることが多々あります。そんな思いを抱えながら、直ぐにどうにもならないことにもやもやしながら、今後も自身と物の在り方を考え続けていこうと思っています。 次回は私がこの道に入ったいきさつや学生時代を振り返りお話しさせていただきますので、また読んでいただけたら嬉しく思います!